信州打刃物について
信州打刃物の歴史
江戸時代前より続く磨きぬかれた技術
今をさかのぼること450年程前の川中島合戦の当時、武具や刀剣類の修理のために 当地へ移住してきた鍛冶職人に、里人が鍛治の業を習い、農具、山林用具作りに生かされました。 その後次第に改良を加えながら、弟子から弟子へ、子から孫へとその技法が伝承されていきました。
より使いやすく
江戸時代末期には、柏原村の久保専右衛門という野鍛冶の考案により、草が根元から刈れ、しかも刈り取った草が手元へ寄せられてくるという効果をねらった「芝付け」 加工や、刃を薄くしても手元が狂わないよう刃面を内側に湾曲させる「つり」加工など独特の工夫がなされました。同じ頃古間村の荒井津右衛門が、それまでの両刃の鎌を片刃で薄刃なものに改良したと言われています。この両者の考案した鎌が今日の信州鎌の原型となり、鎌全体の厚さ1/6という極めて薄い鋼(ハガネ)部分が生み出す切れ味の基となっています。
全国的に販売
幕末から明治にかけて鎌の販売を生業とするものが出、又、生産と販売を分業化した問屋が確立しました。明治21年に国鉄信越線が開通し、これににより全国各地に販売されるようになりました。
昭和53年3月「伝統的工芸品」に指定を受け、益々発展を遂げてまいりました。製品も農具や山林用具だけにとどまらず、包丁他刃物全般や他の製品の製造も手掛けています。
技術の改革
昔の鎌製造は家内制手工業で、規模は小さく従業員はせいぜい1人~3人でした。多くは夫婦二人で鎌の製造をしていました。その仕事ぶりも旧態依然とした方法で、ほとんど「手打ち」と言って、主人がハンマーで叩き妻が合いの手を務めるかなりの重労働でした。
昭和の10年代、野尻湖畔の外国人別荘地に住まうカナダ人で宣教師のアルフレッド.ラッセル. ストーン氏は、新潟の三条の工場が動力機械化されていることを知り、合いの手の主婦を重労働から解放するため、古間の綿貫恒雄氏らと共に、動力ハンマーを備えた鎌工場を建て、技術的、能力的な検証をし機械化の目途をたてました。
そしてその後人々に動力ハンマーを広めました。
これにより生産量の増産に大きく寄与しました。